インバさんちの過去ログ。
大昔のコピー本収録。

 

彼の右腕。

 
 戦いに明け暮れていた夏。

 休み明けの実力テストを翌日に控え、石田雨竜は茶渡泰虎の部屋で復習をしていた。
 テストといっても、成績に不安のない二人だから軽い見直し程度ですむ。

 初めて茶度と一緒にテキストを広げた雨竜は彼の理解能力が予想以上に高いことに驚いていた。
 これでどうして成績3位以内に食い込まないのか、いぶかしる雨竜に
「歴史と古文が苦手なんだ」
と淡々と答えて、茶渡は休憩にしようと席を立った。

 コポコポ、と音を立ててお湯が湧いている。
 彼はコーヒー豆を手動のミキサーでゆっくりと粉にした。
 作法通りの手順だ。
 ほとんど料理をしないと言っていたのに茶渡の右手は迷いもなく動いている。

 雨竜はテーブルの上を片付けながら、狭いキッチンに立つ後ろ姿に声を掛けた。

「コーヒー、きちんと豆を挽いてるんだね。いつもそうするのかい?」
「ああ。メキシコにいた時から…習慣だな」
「そうなんだ…」

 雨竜はゆっくりとドリッパーの上で旋回する彼の腕を見る。
 茶渡がお湯を注ぐとコーヒーの粉はほっこりとふくらんだ。
 香ばしい薫りが辺りにたちこめ、焦げ茶色の液体がサーバに落ちていく。

 体躯に見合う大きな手が生み出す色と香りに神経が和らぎ、雨竜はホッと一息付いた。

 そして彼の手をじっと見つめていた自分に気付いて赤く染まった頬をこする。
 やせぎすの自分とは違い、彼はとてもたくましい。
 腕の筋肉なんて動くと縄の様で、一緒に歩く時などコンプレックスを刺激させらしまう。

 その一方で、守られているような安心感を感じ、無意識にぴったり寄り添いたくなる。
  大きな背中にぎゅっと抱きついたり、広い胸に隠れるように甘えたい。

(馬鹿みたいだ…)

 自分の思考が、まるで少女のようで恥ずかしい。

 彼の節くれ立った指に見とれている自分。
 その指に触れられる感触を想像する自分。
 一人の時に、その感触を思い出している自分。

 どれもこれもあり得ないくらい、気恥ずかしい。
 誰かに頭の中を覗かれたら、どうしよう。

「コーヒー…こぼすなよ?」
「あ、ありがとう」

 いつの間にかテーブルに戻って来ていた茶渡から湯気の立つカップを受け取る。
 大きめのマグカップ。
 彼は片手で持つのに、自分はつい両手で受け取ってしまう。
 こんな所にも二人の違いがわかる。

 二人は似ているところが全然ない。
 体格も性格も育った環境も。
 それなのになぜ自分は彼のそばが一番落ち着くのだろう。
 家族でもこんな思いをしなかったのに。

 コーヒーに息を吹きかけ、冷ましながらゆっくりと口に含む。
 茶渡がじっと自分をみているのがわかるから、視線を合わせづらい。

 目があったら心の内にある想いがあふれ出しそうで、雨竜は無心にコーヒーを味わう。
 黒い液体が舌にふれた途端、ふわっ、と体の中に風が吹いた気がした。

「あ、おいしい…」
「そうか」

 思わず漏れた感想に茶渡がほっとしたように笑った。

「うん、おいしい。ありがとう、茶渡くん」
「む…」

 にっこりと礼を述べる雨竜に茶渡は照れくさそうに笑い返した。
 そして二口目を飲む雨竜をじっと見つめた。

 その視線が自分の口元で止まるのを意識しながら、雨竜はコーヒーを飲み続ける。

 本当は。
 コーヒーの苦さが好きになれなくて、でもそれが子供みたいで誰にも言い出せなくて、今までミルクやシュガーでごまかしてきたんだけど。

 君が入れてくれたコーヒーを君と飲むと、とても甘く感じて。
 すごくすごく、キスしてほしくなるのを。
 やっぱり恥ずかしくて口に出来ないから。

 雨竜は唇の上に残ったコーヒーを舌を伸ばし嘗め取った。
 茶渡が息を飲む音がする。

 それを聞きながら、ゆっくりとカップをテーブルに置き、顔を上げた。

 茶度の視線が自分にまっすぐに注がれている。熱のこもった視線。

「君は飲まないのかい? 茶度くん」

 雨竜は無邪気に問いかけた。

 茶度とそういう関係になってから、雨竜は自分のずるさを知った。
  自分からは行動しない。
  茶度がどこで欲情するのか計算して、待つ。

 何もわからないフリをするのも上手くなった。

「石田…」

 焦燥を含んだ茶度の声。
 視線をそらさぬまま首をかしげ、雨竜は目で言葉の続きを促す。

 彼の腕が伸びてきて、頬を包む。
 最初はなでるようにそっと。そして段々、強く。
 首筋の弱いところを狙って触れてくる。

 雨竜は頬でその手を追い、目を閉じた。
 大好きな彼の大きな手。
 やがてゆっくり彼の温度が近づく。

 苦いコーヒーが二人の間でさらに甘くなるのを確信しながら。

 雨竜はキスを待った。            

 

 

 

 

 

end.